[ だきしめて! ]










「梅雨は嫌いです」

シャーペンを握りながらも窓の外に視線を向けたまま、既に10分は経過している。
家庭教師という名目で雇われている自分にとって窘めなければならない状況だが、今日だけは口を出すのが躊躇われた。

部屋を訪れた時から、彼の様子は明らかにおかしかった。教科書とノートを取り出す動きも緩慢で、宿題こそきちんと済ませてあったがその中身はお粗末な物だった。訂正箇所が多すぎてチェックしているだけで授業時間の半分が過ぎてしまうだろうことが想像できる。
元々、この生徒は優秀だ。家庭教師を務めてすぐそのことに気付いた。頭は良いのに成績が思うように上がっていなかったのは、勉強という一見堅苦しい枠組みに惑わされていただけだったのだろう。本人の中で噛み合っていないだけ。自分にも身に覚えがあるもどかしさだった。教えるというより、一つ一つを説明して絡まった紐を解してやれば、クラウドはすぐさま正しい答えに辿り着くことが出来るようになった。
そんな彼がこのような凡ミスだらけの解答を提出するなど通常有り得ない。間違いを正そうにも、冷静になれば自ずと解けるだろう問題を一々説明するのはお互いにとっても意味がないだろう。
とりあえず新しいページを開かせて、解らないところは訊けと一言告げて後は放っておくことにした。

クラウドは尚も窓の外をぼんやりと眺めている。
少し離れた場所で本を繰っていたオレは、ぽつりと呟かれた冒頭の台詞に顔を上げた。

クラウドの言葉に釣られるように、彼の肩越しの窓に視線を向ける。目を凝らさなければ降っているかわからない細かい霧雨が窓硝子をしっとりと濡らしている。
「あんたは?」
この生徒は初めて会ったときから今まで、一度だってオレを先生と呼んだことはない。
「特に好きでも嫌いでもない」
正直な答えを返すと、クラウドはそうか、と小声で応じてこちらを向いた。
視線がかち合ったので、そのまま相手の瞳を見つめる。クラウドは少し驚いたように僅か目を見開いて、そのまま動きを止めた。湿気のせいかいつもよりぺたりと垂れた金髪の掛かる青い目を見つめていると、先にクラウドが視線を逸らして口端を歪めた。
「・・・・あんたは無口だな」
質問にきちんと答えた直後にする質問ではないと思った。
それを口にすると、そういう問題ではないのだろうと返される。オレには違いがわからなかった。
「今日はもう終わりにしよう。母親にはオレから言っておく」
「・・・突然、なに?気に障ったなら謝るよ」
本を鞄に仕舞い立ち上がりかけたオレの腕を、クラウドが慌てた様子で掴んだ。
「勉強もちゃんとするって。ごめん」
「謝らなくていい。今日はタイミングが悪かった。少し休みも必要なんだろう」
事情は知らないが、クラウドにも色々と都合があるのだろう。無口だと言われたことに腹を立てた覚えもないし、賃金を貰っている以上気のない生徒にも授業を強行するのが仕事だろうが、一人で考える時間を与えることも必要だと判断しての提案だった。しかしクラウドは想像と違い、訝しみたくなるほどの熱心さでオレを引止めたがった。
結局もう一度腰を下ろすことになってしまい、オレは知らず納得のいかない溜め息を零した。
「気を遣ったつもりなんだが」
クラウドは苦笑を浮かべて、自分も勉強机の前に腰掛け直す。
「ごめん、確かにちょっと気分落ちてた。でも帰れとかそういうんじゃないから」
言い聞かせるように言葉を継ぐクラウドの口調は、此処へ来た当初の自分のそれを彷彿とさせた。そういうばオレはこんな風にして、クラウドに勉強を教えようとしていた気がする。
「悪いがオレは相談相手には向かないぞ」
「あんたに相談しようと思うほど付き合い浅くないから大丈夫」
「ならいいんだが」
勉強は教えられても悩み相談の類は苦手だ。ほっとしてそう言うと、クラウドは何故か深々と溜め息を吐いていた。
「嫌味のつもりだったんだけど・・・」
「何がだ」
「あんたってさぁ、怒ったりとかしないの?」
「怒って欲しいのか?」
「・・・・まぁ、ちょっと意味は違うけど、そうかも」
「・・困ったな・・・」
眉を寄せて唸ると、クラウドがぱっと顔を上げて嬉しそうに笑った。
「あ、今のもあり」
「困るのが?」
「そうそう」
にこにこ笑うクラウドは、ほんの少し頬を赤らめていて、機嫌が直ったのを通り越していつもより上機嫌そうに見えた。
「元気になったなら授業を再開したいんだが」
「ちょっと待てよ。あんたが今日は終わりって言ったんだろ」
「おまえが断ったんだろう」
「そうだけど、こら、帰ろうとしないでくれない」
「どっちなんだ」
「授業は休み。でも時間まで居て欲しい」

そういえば、梅雨は嫌いという発言にはどんな意味があったんだろう。

「授業はして欲しくない、ここに居て欲しい、怒って欲しい、困って欲しい。次は何だ?」
既に帰るのは諦め、腰を落ち着けて目の前の生徒に問うと、奴は思いの外柔らかい笑みを浮かべて、言った。
「笑って欲しい。笑顔が見たい」

家庭教師というのはどこまで生徒の要求を聞くべきなのか。
オレは安易に引き受けたこの職業に対して初めて真剣に考えるべき憂慮を胸に抱いた。





end.








我ながらふざけたタイトルだと思う うん、おもいつかなかった・・・・