[ 陶酔境ソリスト ]
音楽は偉大だというのは多くの人々の認識だが、音楽は金になるかというとそれは難しい。
毎日のように音楽室に篭りピアノを弾く僕の前にふらりと現れる男は、僕の一つ後輩のこの学校の生徒だった。
専攻が違うことと僕の一人を好む性格とが相俟って僕は彼の顔さえ初めて見た。間近で見た彼は、一度見たら忘れられないくらい質が良かった。
彼がいる空間はまるで絵画のように美しかった。奥から中庭の木々、窓、白いカーテン、そして彼、いくつかの椅子、いくつかの机、一番手前にピアノ。
一枚の絵の中にあって、それでも彼は決して個々の素材を邪魔にはしない。ただ、吸収するだけだ。
作曲はしないのか? と彼は笑った。
その日は、彼と共に放課後を過ごすようになって半年も経った、風の穏やかな晴れた日だった。この頃は彼も、もう切り離すことが難しいくらいこの空間と僕に馴染みきっている。
数多の先人の偉業をなぞるような真似を続けて、楽しいかという意味だと僕は思った。僕は曖昧に首を傾げる。
「今はしない」
「お楽しみはとっておく、か?」
鍵盤を見つめる僕の視界に彼はおらず、斜め後ろから声だけが聞こえる。彼の存在はそれくらいが丁度良い。聞こえる声は耳に心地よかった。
僕は再び指を滑らせる。
「僕の技術はまだまだ未熟だから。今は練習あるのみ」
「おまえにとって万人に評価されてきた名曲達は全て練習曲か」
「そんな・・・・」
鍵盤からは眼を離さない。少しでも上向けば、黒光りするピアノに写りこんだ彼の姿に惑わされてしまうから。
彼は残酷なほどに鋭い。僕の内心をピタリと言い当てる。たとえそれが真の答えであっても、結論に至るまでの過程を省かれればそれは違った形で伝わってしまう。折角僕がオブラートに包んで柔らかく相手に渡そうとしているものは、彼に掛かればただの無遠慮にぶん投げられた個人の主張という名の礫となる。
「己の世界を具現した音楽を完璧に演奏するために、数多の作曲家達の子供を踏み台にする」
「僕はそこまで身の程知らずじゃないつもりだけど」
「嘘吐き」
彼がうっそりと笑った気配がした。僕の耳にはもう、僕が演奏する音楽など聞こえてはいなかった。どんな高名な曲だって、彼の前では認識すらさせることは出来ない。僕の演奏は彼に奪われてしまった。僕は曲が終わりを迎える前にすっぱりと手を止めた。
「・・・・・・君は嫌いかい?こういう考えは」
「貴重な人生を潰しておまえは技術を磨く。なら当然の権利だな。目的は常に自分の利益」
当たり前のことだ、と彼は言う。
「・・・・・・まぁ、僕はおまえの作る曲になんぞ興味はないが」
そして彼はまた笑う。僕を喜ばし、慰めるようなことを言って、次の瞬間には突き放す。
僕は返事をする代わりに、深く息を吸い込んでから意を決してもう一度鍵盤の上に両手を掲げた。
紡ぐは楽譜のないオリジナル。気紛れに音が爆ぜる不規則な旋律。
僕は眼を瞑る。後ろで彼が、誰の曲だろう?タイトルはなんだっけ?と考え込む様を想像する。
ありもしない答えには辿り着くことは出来ないだろう。僕は彼を思いながら指を動かし続ける。身体が踊る。彼という存在を一万分の一でも表現できるよう。僕にはそれが出来るのだということを彼に見せてやろうと思う。
長くもない演奏が終わり、僕は振り向いた。
「君に似ていたと思わない?」
僕が初めて作曲したのは、自分以外のものの為の曲になってしまった。
彼は僅かに片方の眉を吊り上げ、暫し黙り、
「・・・・がっかりだな」
と満足そうに笑った。
「オレは、」
彼は続ける。
「特別だ」
そんなことは知っている。身をもって、日々痛感しているのだ。あまりにも判然としていることを何故今明言する。
「いつだってそうだ。隣に並んだふりをして、気が付いた時には十歩も百歩も前に居る。しかし」
僕は漸く彼の眼を見た。こちらに向けられてはいるけれど、そこにある光はちらりとも僕を見てはいなかった。
「おまえの前には立ちはだからない。おまえがオレを見過ごそうと、オレの価値は変わらない」
彼は首を伸ばして僕に口付けた。
椅子に跨り木製の背凭れの上に両手を交差させて、そこに乗せた顎は美しい曲線を描き彼の端正な輪郭を縁取っている。青色の瞳、金の髪。緩やかに弧を描く唇は仄かに赤い。
僕はいつだって彼を背景に置いて演奏していたかった。
end.