[ハピネス]
ベッドルームに備え付けられた有りと有らゆるアンティーク家具に血が付着している。
どす黒くてちっとも綺麗でないそれらを、白雪は何の感慨も抱けぬまま見渡した。
「目がぁあぁああああ!!!!」
部屋の隅であの人が叫んでいる。必死に身を捩って、酷使された喉からはきっともう二度と平素の澄み透った声は生み出せないだろう。
どうやら彼女の視界は闇に閉ざされてしまったようだ。いいじゃないか、と白雪は思う。
千影はそろそろ注視妄想の檻から抜け出るべきだといつも思っていた。呆れてもいた。
白雪は眼に入りそうになる前髪を横に払って、美しく歪む口唇こそその機能を放棄するべきだったのではないかと冗談交じりに考え思わずといった体で顔を綻ばせて千影に近づいた。
そっと肩に触れると面白いくらいに千影の体が跳ねた。
ゆっくりとこちらを振り向いた千影は血塗れの頬を10本の指で捏ねる様に弄っている。
「私は・・・・・」
「止めますのよ」
己の頬を擦り付けて、眼球から迸る温血を共有する。
眼にも入り込み、服を汚した。飛び散る血潮は白雪の髪や口の中にまでも浸潤してきた。
心細そうに見えない瞳を向けてくる千影に、白雪は舌打ちで応酬した。
その途端に千影が暴れだした。繰り返し繰り返し恋人の名前を呼んで(ここで兄を称呼しなかったことは千影にとっても救いだっただろう)手を伸ばし、白雪の襟を鷲掴みにすると死力を尽くしたような勢いで小さな釦を弾き飛ばした。
露わになった白雪の乳房(ちぶさ)に顔を埋め獣のように全身を震わせる盲に、白雪は湧き上がる濁流のような慕情を感受した。
優しい瞳を思い出した。
咆哮を上げていた千影がやにわにそれまでとは対極の声量で呟いた。
「・・この眼(まなこ)は魔界へのとびら・・・・・私は・・・帰れない・・もう・・・かえれない・・」
力なく吐き出された掠れた声に、白雪は彼女の矜持が打ち砕かれたことを知った。
白雪は己の身体からも血が溢れ出ているような錯覚を覚えた。それは毒血だった。
しかし白雪は、千影のものも自分のものも、同じ血液であり意味を持つ違いなど何もないことを知っていた。
「そんなものは・・初めから無かったんですのよ・・・」
赤子をあやす様に囁いて、千影には味わえない光の世界を目と皮膚で感じ取りながら、白雪は亞里亞のことを考えていた。
姫は『たった一人の』姫だったんだわ。 誰よりも愛してもらっていたんだわ。
新たに頬を濡らしたのは、最早空涙でしかなかった。
千影も白雪も、もう亞里亞には決して届かない世界へいってしまったのだ。